追悼ディアンジェロ

Emerald Official Fan Community 喫茶えめらるど

2025/10/15 13:11

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有名人の訃報に際してSNSで何かを語る行為を、僕はこれまで少し斜に構えて見ていた。彼の家族や長年の友人たちが感じる痛みの大きさを想像すると、遠い日本のいちバンドマンである僕が語る喪失感など、あまりにちっぽけで、おこがましいのではないか。そんな風に考えてしまい、どうにも白々しく感じていたからだ。

でも、心のどこかでずっと引っかかってもいた。本来、XのようなSNSはもっと個人的な感情を零す場所のはずだった。「ディアンジェロが亡くなった、悲しい」と、ただ呟くこと自体に、他意などないはずなのに。僕が感じていた白々しさの正体は、悲しみの表明そのものではなく、その死を借りて自分の見識やセンスをひけらかすような、自己顕示の匂いに対してだったのかもしれない。そして、自分の行為がそう見えてしまうことへの恐れだったのだろう。

だが、今回ディアンジェロの訃報に接し、そのスタンスのままでいることはできなかった。これまでインタビューで彼からの影響を公言し、僕らのバンドEmeraldの楽曲にもリスペクトを込めたフレーズを忍ばせてきた自分が、この訃報に際して沈黙を貫くのは、あまりに不誠実ではないか。そう強く感じたからだ。

この葛藤の中で、あらためて考えてみた。誰かが影響を語り、それがきっかけで新しい誰かがその音楽に触れる。そうやって魂が受け継がれていくのなら、たとえ一部が「売名行為」に見えたとしても、その行為自体を頭ごなしに否定するべきではないのだろう。僕が深く考えていなかっただけなのだと、思い至った。

だから、考えを改めた上で、やはり言葉を綴りたいと思う。僕にできる唯一の誠実な追悼は、彼から何を受け取り、僕の音楽と人生がどれだけ豊かになったのかを、正直に記録すること。もしこの感謝の記録が、彼の音楽が誰かの耳に届く小さなきっかけになるのなら、それこそが、彼が遺した魂を未来へ繋ぐことだと信じたい。

学生時代、今のバンドEmeraldのキーボードである中村と一緒に音楽を作っていた時期がある。ほんの僅かな期間でそのバンドは解散してしまったのだけど、その時の僕は、ギタリストとしての深刻なアイデンティティクライシスに陥っていた。もしあそこで中村が繋ぎ止めてくれなかったら、僕はあっさりと音楽の道を諦めていたかもしれない。

当時の僕は、ギタリストという存在を二つのタイプに大別して考えていた。一つは、誰もが憧れるギターヒーローの超絶技巧を受け継ぐプレイヤー。もう一つは、衝動的に大きな音を鳴りしたいと願うロック・パンクの精神を持つプレイヤー。僕は完全に前者への憧れからギターを手に取ったが、残念ながら、自分にはそこまでの才能はないと早々に気づいてしまった。テクニックに自信がないままステージに立つことの心許なさ。自分の価値をどこに見出せばいいのか、完全に見失っていた。

僕が学生だった頃の日本のインディーズシーンでは、鍵盤とギターが対等に存在するバンドはまだ少なかったように思う。いたとしても、どちらかが主役で、もう一方は脇役というような印象が強かった。僕の稚拙な思考もまさにそれで、「ギターの役割はリードかバッキングの二択。でもバッキングは鍵盤と役割が被るから不要だ」などと本気で考えていた。そんな凝り固まった頭でいた僕に、中村が紹介してくれた数多くの音楽の中に、ディアンジェロがいた。

初めて彼の音楽を聴いた時の衝撃は、今でも忘れられない。そこでは、僕が競合すると考えていた鍵盤とギターが、互いを喰い合うどころか、完璧に同居し、官能的で素晴らしいアンサンブルを構築していた。そして、何より僕の心を捉えたのは、そのギターフレーズだった。それはバッキングのようでありながら、時にはリードのようにも聴こえる。リフと言ってしまえばそれまでだが、延々と繰り返されるそのフレーズは、まるで職人技のように磨き上げられた「パターン」そのものだった。永遠に聴いていられる、魔法のようなフレーズ。

その瞬間、僕の中で新しい扉が開いた。ギターヒーローになる必要はない。僕は、楽曲の中で常に最適なパターンを見つけ出し、それをひたすら磨き上げる「パターン型ギタリスト」になればいい。僕のギタリストとしての人生に、確かな指針が生まれた日だった。

ディアンジェロという扉を開けて、その先の世界を深掘りしていくと、そこには素晴らしい「パターン」が無数に転がっていた。僕が心の底から好きになり、「こうなりたい」と憧れるギターフレーズやプレイヤーたちが、そこには確かに存在していたのだ。彼との出会いがなければ、僕はその世界の存在にすら気づけなかったかもしれない。

彼が生涯で残したスタジオアルバムは3枚。もちろん、ファンとしては、もっと多くの作品を聴きたかったという想いはある。だが幸いなことに、彼の音楽の神髄に触れられるライブ盤やライブ映像は、探せば数多く見つけることができた。そして、その一つ一つが、スタジオ作品とはまた違う、新たな驚きと発見を与えてくれた。

例えば、一つの強力なギターパターンを、3人のギタリストがユニゾンで弾くことで、そのフレーズの輪郭を極限まで際立たせるアンサンブル。あるいは、異なるパターンを複雑に織り込み、一つのグルーヴをレイヤードしていくようなアプローチ。スタジオ作品だけではうかがい知れない実験の数々が、ライブには溢れていた。そのどれもが僕の心を捉え、僕が目指すべきバンドサウンドの、揺りぎない芯として今もなお残り続けている。

 

人生で一度はライブを見てみたい。そう願うアーティストは誰にだっているだろう。僕にとって、ディアンジェロはまさにその筆頭だった。だが、僕が彼の音楽に出会った2010年頃、彼はすでに10年近くライブ活動を行っておらず、その存在は伝説と化していた。時折流れる新作の情報は決まってガセネタで、たまに出るリリースは過去のライブ盤の焼き直し。いつしか僕は、彼のニュースに心を動かされることすらなくなっていた。

2012年にヨーロッパツアーを行ったという報せも、僕が知ったのは全てが終わった後だった。もう、彼の生演奏に触れることは叶わないのだろう。そう諦めかけていた2014年の冬、何の予告もなく、突如として新作『Black Messiah』がリリースされた。そして翌2015年、まさかの来日公演が決定する。Zepp Tokyo、一夜限り。その告知を見た時の心臓の高鳴りを、どう表現すればいいだろう。

僕らEmeraldのメンバーは、祈るような気持ちでチケット争奪戦に挑んだ。案の定、予約の電話は全く繋がらない。それでも諦めずに何度もリダイヤルを繰り返す中、奇跡的に僕の電話だけが繋がり、チケットを手にすることができた。自分の音楽人生を変えたアーティストのライブに、今の仲間たちと一緒に行ける。これ以上の喜びはなかった。

ライブ当日、開場時間ギリギリまで仕事に追われ、全てを放り投げるようにタクシーに乗り込んだ。人生で後にも先にも一度だけ、運転手さんに「もし可能でしたら、少しだけ急いでいただけますか?」とお願いしたのは、この時だ。

「なにかのライブですか」と尋ねる運転手さんに、僕は一気にまくし立てた。「人生でもう二度と見られないと思っていたアーティストの、一日限りの公演なんです」。すると彼は、穏やかにこう返してくれた。「お気持ち、わかります。僕もビートルズの大ファンで、仕事でライブに間に合わなかったことがあるんですよ。できる限り、頑張らせてもらいますね」。彼の優しさに救われ、なんとか開演時間に間に合った。

会場に入ってからがまた長かった。体感で1時間ほどDJの音を浴び続け、あれほど急いだのに、このまま本人に会えないんじゃないかと不安になった頃、ふっと照明が落ちた。そして始まった一曲目。僕は、気づけば涙を流していた。その後はもう、夢のような時間だった。ファンが聴きたかったであろう曲の数々を、彼は余すことなく演奏してくれた。

公演が終わる頃には、終電が迫っていた。けれど、僕らは誰一人として駅へ急ごうとはしなかった。この魔法のような余韻を、1秒でも長く味わっていたくて。僕らはしばらく夜の街を歩き、一台のタクシーに乗り込んで一緒に帰った。あれは間違いなく、僕の人生における、数少ない本当に大切な思い出の一つだ。


こうして思い出を振り返ってみると、僕が彼から受け取ってきたものは、あまりに一方的だったのかもしれないと、今更ながらに思う。彼の表現の根底にあったであろう魂や葛藤、その文化的背景を、果たして自分はどれだけ理解できていただろうか。正直に言えば、音楽としての圧倒的な魅力、その表面的な部分に心を奪われていただけだったのだろう。

もっと深くディアンジェロをリスペクトしている人々から見れば、それは「文化の盗用」だと指をさされても、仕方のないことだったのかもしれない。彼の死に際して、ようやくそんな自己反省に行き着いた。あまりに遅すぎる気づきだけれど。

だからこそ、これからだ。彼の音楽が内包していたもの、彼が表現しようとしたものの核について、もっと深く学び、理解したい。そして、最大限のリスペクトを込めて、僕自身の音楽に昇華させていくこと。それが、今の僕にできる、本当の意味での追悼になるのだと信じている。

ディアンジェロ、あなたの音楽は、これからも僕の中で、そして僕らの音楽の中で、鳴り止むことはない。心からの感謝を。

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